カリオストロの城(しろ)と魔女(くろ)

カリオストロの魔女」はBLZ氏(Twitter ID: @blz_bb)による、1979年に発表された劇場アニメ「カリオストロの城」の35年後を描いた二次創作漫画である。

PIXIV上で連載され、2014年から2018年の足掛け4年で完成を見た。現在も無料公開されているが、この度BLZ氏自身のプロデュースで書籍版が同人誌として発売開始した。

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見ての通り、全てが黒い。カバーはクリアPPに箔押しという念の入った加工が施されてコードバン皮革のごとく鈍く光り、小口は分厚い黒塗り、中身は墨のような黒とそれが削られた痕のようなきっぱりとした白の2色しか存在せず、さながら白黒映画の趣である。本編を一読すれば、ドライでハードな演出と相まって、映画「シン・シティ」を思い起こす人も多かろう。装丁デザインとその仕上げ、そして無論漫画本編の隅々にまで徹底的なこだわりが詰め込まれたこの本には、一般書店に流通するISBN付きの書籍にはない、異様な迫力がある。

この突き詰められたこだわりは一体何なのか。

前述のとおり、「カリオストロの魔女」は宮崎駿監督のアニメ作品「カリオストロの城」を下敷きにしている。演出家として脂の乗り切った宮崎監督のレイアウト力、色彩感覚、物語力、編集力、省略力といった技術が炸裂したこの映画は、今なお(と言うより時を重ねれば重ねるほど、なのだろう)日本アニメーションの一つの金字塔としての存在感を誇っている。

この映画のラストで、去っていくルパンたちを見送りながら、クラリスと共に立つ髭の庭師が言う。

「なんと気持ちのいい連中だろう」

そう、このアニメは色彩にあふれ、動きにあふれ、爽やかさにあふれ、観る者に童心のように無垢で純粋な気持ちよさをかき立てる物語としてすっきりと100分で完結した。

 

しかし、それを真に受けなかった男がいた。

BLZ氏である。

 

少年時代にこの映画を観た彼は、よくよく考えた。

カリオストロ伯爵は打倒され、クラリスは解放され、ルパンたちは泥棒稼業に彼女を巻き込むまいと去って行った。確かに一見めでたしめでたしである。しかし、残されたクラリスカリオストロ公国は一体どうなる? 贋金産業は崩壊し、国の主幹事業を失った公国とクラリスを待ち受けるのは、欧州列強の包囲圧迫をはじめとした凄まじい茨の道なのではないか?」

想像力の出発点は、作家により、作品により、異なっている。BLZ氏の得意とし、また傾向とするところは、とある物事の「裏」、あるいは「続き」を追うことである。一見筋が通った物語の裏に、語られていない物語を見出し、全てが落着した物語の中に、続きを読み解くことにより、物事は違う顔を見せ、そして(彼にとって)真の顔を見せる。

 BLZ氏は長い時間考えた。

カリオストロ公国はその後どうなったのか? そしてルパンとクラリスは? 彼らは今どんな顔をして、何をして、何を望み、何を語るのか?

その疑問に対する思考と、その過程で彼の脳内に現れた、「まだ描かれていないだけで確実に存在するはずの絵」を表現したいという欲望の結果が、漫画「カリオストロの魔女」である。

 

この漫画における表現には、幾つかの禁欲的な(と言わざるを得ない)ルールがある。 

 

  • 効果音は使用しない
  • 効果線は使用しない
  • スクリーントーン(的濃淡表現)は使用しない
  • ナレーションは(基本的に)使用しない

 

このルールが設けられた理由が直感的なものなのか論理的なものなのかは分からない。しかし少なくとも意図的なものである事は、この制限によりもたらされたものからはっきりしている。それは、たたずまいの静謐さ、語り口のリアルさ、事物の陰影、そして「圧倒的な黒さ」である。

 

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この作品は徹底的に黒い。物語の舞台自体が夜であり、まるでキャスリン・ビグローの「ゼロ・ダーク・サーティ」で描かれたビン・ラディン強襲作戦のごとく、全事件はどす黒い真夜中に進行する。墨が弾けたような陰影の表現で描かれるアクションシーンは、格闘ゲームストリートファイターIV」の表現を彷彿とさせ、静と動の緩急が静かに激しく往復して美しい。

 

何故この漫画は黒いのか。

それはこの物語の想像力の出発点に起因する。

 

「光と影 再び一つとなりて 甦らん」

 

これは、映画「カリオストロの城」本編に現れたメッセージである。カリオストロ伯爵が持つ「金の山羊の指輪」と、クラリスが持つ「銀の山羊の指輪」を合わせることにより、秘められたゴートの財宝が明かされる、そのヒントとなる言葉であった。そして劇中においては、「光」はクラリスの出自である大公一族、「影」はカリオストロ伯爵家を示し、正義と悪の運命的な衝突と交わりの象徴として機能した。

つまり本来は、映画本編内で完結するメッセージである。

しかし、BLZ氏の想像力はここから始まった。

 「このメッセージは単なるお宝探しの謎解きではなく、隠されたもう一つの物語の存在を示している」、と。

上述の通り、「カリオストロの城」は煌びやかで爽やかで美しく、一見遺恨なくすっきりとその物語を終えている。BLZ氏はこの本編そのものを「光」と見た。しかし「光」には、語られていない問題(=影)が数多く残されている。そうであるならば、語られていない物語は、既に語られた光の物語とは真逆の、全てが真っ暗闇の物語であるべきではないか。ストーリーにおいても、表現においても。

 

したがって「カリオストロの魔女 書籍版」の冒頭には、「光と影 再び一つとなりて 甦らん」のメッセージが宣言として掲げられる。

 

つまりBLZ氏は、宮崎駿監督による「カリオストロの城」を光、自らの仮説である「カリオストロの魔女」を影と位置付け、両者が一つとなる事によってカリオストロ・サーガは「再び一つとなりて甦り」、完成する、としたのである。光が真であり、影が偽という関係ではなく、両者はあくまで二つで一つであるとする一方的な宣言である。

これは、あらゆる二次創作がそうであるように、原作をハッキングする試みだ。勝手に物語内に侵入し、種々の要素を生かし、殺し、並べ替え、成長させ、独自のプロトコルを走らせた結果、出来上がった別のモノをもう一つの本物ヅラして提出する。

その本物ヅラをするために、BLZ氏は徹底的に表現にこだわった。

35年経って年老いたルパンとクラリスの顔面に刻まれた皺、靴やスーツのディテール、飛び交う弾丸、作戦計画の交信、近接戦闘の激しい衝突、これらが全て、真っ黒く深く画面に刻まれる。これらを徹底することによってリアルさや静謐さがもたらされるのは既述の通りだが、更に特筆すべきは、この物語のモチーフ自体に「黒」を選択した事によって、物語と表現に相互補完の関係が生まれているということだ。

つまり、カリオストロの城の「白」に対抗するための「黒」としての物語、「黒の物語」を成立させるための「黒の表現」、「黒の表現」を成立させるための「黒の物語」、これらが結託して循環構造となり、この漫画に迫力とリアリティを与えている、そのような仕組みになっているのだ。

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構造としてはこの通りであるが、この漫画の特徴は、そこに留まらない。徹底的な「カッコ良さ」の追求もその大きな魅力の一つである。皺や表情の詳細な機微、装備やアクションのディテールは、確かに「黒」の漫画を成立させるための機能を果たしているが、突き詰められたこだわりは、実は最早光と影という対比の問題では収まらない。行きつくところ単に、BLZ氏の漫画家としての美意識の問題であり、この漫画の根幹の魅力である。光と対置する影のモチーフも、結局は全てこの「カッコ良さ」に奉仕するためのマテリアルでありベースメントであるとも言える。だから読者は光と影がどうのこうのなどという事をわざわざ意識せずとも、BLZ氏の重厚かつ華麗な筆致を追いかければこの漫画を堪能したことになる。

このレビューは未読の読者に読まれる事を前提にしたいので、ネタばらしは避ける事にしたいが、終盤にはこの漫画が「カリオストロの城」と衝突するのにふさわしい、そしてまた絶対に必要な演出が用意されている。これから読まれる方には是非それを堪能していただきたい。

 

この漫画は、「カリオストロ外伝」ではあっても「カリオストロ偽伝」ではない。闇に眼を凝らすことによって見つかった、もう一つのカリオストロである。

「BLZ氏はカリオストロの城を真に受けなかった」と書いた。しかし、実際にはそうではないのだろう。むしろ、彼は最もこの物語を真に受けた一人だった。

「光と影 再び一つとなりて 甦らん」、この言葉の意味と、「カリオストロの城」で描かれた全てのことを、一人の漫画家が、噛み砕き、徹底的に考え、長い時間をかけて鍛えた技術によって出力した一つの結論が、この「カリオストロの魔女」である。

 

最後に、Web版と書籍版の比較について。

Web版で連載を追いかけ、今こうして書籍版を手に取り通読して比較したところ、この物語の「黒」をより正確に表現しているのは間違いなく書籍版の方であり、これが完成版と言える。

BLZ氏が意図した、「光と黒が衝突して甦る真」を100%堪能するには、是非書籍版で読まれる事をお薦めする。

 

書籍版 販売ページ

booth.pm

Web版 

【カリオストロの城】「カリオストロの魔女#1」漫画/BLZ [pixiv]

 

「スノーデン」について

僕は「スノーデン」を政治信条を訴える映画としてはほとんど観なかった。では何として観たかと言えば「ルービックキューブ」の映画として観た。

 

オリバー・ストーンのこの映画における目標は大きく3つあったと思う。

1.米国政府の欺瞞と、プライバシー侵害という自由に対する抑圧を世界に敷衍して告発すること。

2.エドワード・スノーデンを英雄として描くこと。

3.映画として最高に面白いものにすること。

 

僕がこの映画に惹かれたのはひとえに「3」によるもので、1と2は3がもたらした一つの結果に過ぎない。もちろんこれらは互いに支え合う関係にあるので、あるいは、1と2を利用することによって3がもたらされている。とにかく僕はオリバー・ストーンがいかにしてこの映画を面白くしているか、そこに注ぎ込まれた技術に興味を持った。

 

真実も正義も相対的なものだからこそ、スノーデンや記者側から観た正義を彼らが断固として主張することに僕も疑義は無い。その意味でシチズンフォーはやはり1と、2が半分、の映画だった。あくまでも理知的でクールで整然としていなければならない。それがこのドキュメンタリーの役目だったのだから当然だが、ハリウッド映画監督であるオリバー・ストーンの役割はやはり3だ。

3の働きは何か。それは、一つの主張や事実を、我らのものとし、感情を揺さぶる、ということだ。どんなアホにでも「アメリカヤバい、スノーデンカッコいい」と思わせることだ。そこに痺れた。主張の内容よりも、主張する時にはこうすれば面白いのだ、というやり方を徹底的にやりきったことに痺れた。

 

この映画の何が「面白い」のか、細かい話をすると恐らく編集の技術やら要所要所で射しこまれるサービスカットの話になっていくが、俺は特に重要だったのは次の2点だったと思う。

1.スノーデンを「人間」にしたこと

2.ルービックキューブの使い方

 

1.スノーデンを「人間」にしたこと、について。

シチズンフォー」の話になるが、ここでは本物のスノーデンが出てきて、記者から簡単なプロフィールを尋ねられる。そこでスノーデンは、詳しく話さなくちゃだめか、と記者に尋ねる、「僕の人格がクローズアップされるのは避けたい。メディアは個人を優先して取り上げすぎる。そうされることで論点がずれるのは避けたい」。

スノーデンは正しく、そして間違っている。もちろんそうされることによって報道という伝達される情報量が限られた手段においては、間違いなく彼の意図からは外れて行く。しかしメディアが人間をクローズアップするのは、その方がリアルで分かりやすくて面白いから、当然なのだ。

 

そしてオリバー・ストーンはもちろん、スノーデンという人間に思いっきりフォーカスする。彼が撮るのは映画だからだ。言いたいことをほとんど全部言える時間がある。スノーデンを魅力的に撮れば撮るほど、映画としては面白くなる。そしてそのためにオリバー・ストーンが取った手段は、スノーデンという男を「人間」に引きずり下ろすことだった。

 

かつてニュース動画や写真で観たスノーデンの顔は、青白く、理知的だった。しかし彼が何を考えているのかよく分からなかった。僕にとって彼の顔ははっきり言ってオサマ・ビンラディンの顔に対する印象とあまり変わりなかった。あまりにもでかい事件の首謀者であったので、何者なのか測り知れず、一種超常の立場にいるように見えたのだ。

 

そのままでは物語の主人公にはなれない。少なくとも我々の世界に生きる、我々が共感する主人公にはなれない。彼と共にこの事件を辿るためにも、我々自身が対象になっているこの事件に共感するためにも、彼に我々の場所に降りてきてもらう必要がある。

 

ここでオリバー・ストーンが取った戦略は、必然だったのだろうが、秀逸だ。彼はスノーデンを可能な限り「そんじょそこらの男」にした。彼が描くスノーデンはたまらなく魅力的だ。軍に志願したはいいものの運動音痴で除隊、恋人とはいつもケンカ、軍は落伍したが銃の腕前だけは一流(まるで野比のび太だ)、同僚と冗談も言い合う、てんかんにもかかる、嫉妬もする、パスタを茹でたら眼鏡が曇る。でも仕事には真摯で類まれな秀才で、恋人は絶対に裏切らない、エロ動画が流れそうになったら止める。まさに、彼に一人の人間として向きあった時、俺たちの信用に値する人物として描かれている。本物のスノーデンがどういう人間なのかはもちろん分からない。オリバー・ストーンだって分からんだろう。しかしこれが正解だ。彼がどうなるのか、いかなる選択をするのか、というストーリーの終着点に向かって俺たちの注意を最大限引き付ける。

 

もちろんこれは映画作り、物語作りにおいては常套中の常套だ。しかし、スノーデンという人間の像はこれまで一貫して大いなる謎だったのだ。その男が一気にすぐ目の前に近付く、その落差、跳躍による彼我の隣接感、リアリティは滅多に味わえないものだった。

 

 

2.ルービックキューブの使い方、について。

この映画はとにかく小さな演出の積み重ねが効いているが、その中でも最たるものがこれだ。

 

シチズンフォー」を観て初めて知ったが、スノーデンは実際にジャーナリストとのランデブー時の目印としてルービックキューブを携帯していたらしい。この事実を起点にして、オリバー・ストーンの映画的想像力が一気に羽ばたいたのは想像に難くない。

 

これは全く絶妙なアイテムだった。待ち合わせ時間に遅れて来たスノーデンが右手でルービックキューブを回しながら現れる登場シーンは映像的スリルに満ちたすばらしいカットだった。あの一瞬で、ヒーローが現れたこと、謎とサスペンスが動き始めたこと、我々の身近にあるアイテムを持つことで主人公を「人間」化すること、ルービックキューブの色に象徴される多種多様な人間の思惑が錯綜しその真っ只中にいるのがスノーデンであることなどが、一発で表現される。

 

そしてオリバー・ストーンルービックキューブを使い倒す。具体的には機密情報の持ち出しの最大のギミックとしてこれが使われるわけだが、これにとにかく痺れた。ルービックキューブの一片が、蓋が取り外せるようになっていて、そこにmicroSDが収納できるようになっているギミックの事だ。

 

ルービックキューブはスノーデンの行動を映画として面白く、そしてリアリティをもって表現する、という目的のための、絶妙なパズルだった。誰もが一度は触れたことがあるもので、少し知恵を使い、少しコツがいる。「少し以上」頭がいい人が触る者としてリアリティを持つアイテムなのだ。そしてそこに、誰も気が付かなかった小さな蓋が付いていて、中にはアメリカ政府の重大な欺瞞を暴くデータが収納される。非常に卑近なアイテムの中に、世界を揺るがす謎が収まっている、というロマンだが、個人的にこのギミック、想像力の押し進め方には極めて共感する。これがどういう事かと言えば、要するにスノーデンによる極度に重大かつ専門的な行動を「俺たちでも知恵と勇気があればNSAから情報を盗むことができる」というリアリティに変換したということだ。オリバー・ストーンが「スノーデンはルービックキューブを持っていた」というたった一つの単純な事実から、この映画のストーリーをどう膨らませて行ったかが、手に取るように分かる。

 

 

最も重要なポイントはこの二つだと思うが、もう一つこの映画にとって重要な要素として、音楽的構造になっていることが挙げられると思う。テーマを繰り返して音を増やし、最後に転換してフィナーレに持ち込む構造になっている、ということだが、これの詳しい話は割愛させてもらいます。とにかく個人的に、オリバー・ストーンの映画作家としての実力をまざまざ見せつけられた映画でした。

「予告犯」は何故素晴らしいのか。

素晴らしかった、予告犯。

大好きだ。俺はこの映画が本当に大好きだ。

 「明日の予告を教えてやろう」という、文法的に怪しい日本語がキャッチーに響く予告編、生田斗真の大して迫力の無いわざとらしい犯行声明も、戸田恵梨香の警視庁エリートとは思えないヤンキー声も、ただ危険な兆候でしかなかったが、しかし何故か気になった。

ホントに見て良かった。これは我らの映画です。

この映画、そりゃねーだろというマイナス要素挙げていくときりがない。

ネットカフェのハッキングの手段、

戸田恵梨香生田斗真のお粗末な追走劇、

犯行動機、

ラストの展開、

はっきり言ってしょぼい。筋書きとしては説得力に欠けている。

しかし、全くどうでもいい。

逆に、そのうちの幾つかはこの映画の魅力そのものだったりする。

以下、あくまで個人の感想とともに、完全にネタばれでこの映画の魅力について書きます。

  

俺にとってこの映画が優れている点は二つあります。 

一つは、現代を描いていること。

一つは、友情を描いていること。

これはどちらも、この映画が、いかに現在を生きる俺たちに寄与するか、いかに俺たちに関係があるか、ということで、つまり映画の根本的な存在理由に関わる問題です。

この2点を突破してきた時点で、俺がこの映画を嫌いになるはずがない。

 

現代を描いていることについて。

 

この映画で取り上げられる事件、犯行グループ「シンブンシ」がやり玉にあげ、また犯行に利用する手段は、全て昨日今日起こった物事ばかりです。

食品偽装事件、バカッター問題、ネット上の世論調査、メントスコーラ、全て我らが知っているネタです。

今生きている我らの周りで起こっている事件ばかりであり、

彼らが配信するのはニコ生であり、それをアクセスする場所もネットカフェ。

そして、有象無象のヤジ馬たちが騒ぐのはツイッター

 これらは、いかに俺たちのすぐ傍に「シンブンシ」たちがいるか、それを感じさせる臨場感のための演出です。

 そして演出はただの演出に留まらず、俺たちが生きている場所を描きだします。

派遣で入った職場で苛められて吐き、挙句に切られ、空いてしまった無職期間のせいでハローワークでも見つからない職。そして落ちて行くのがタコ部屋労働。いつ俺たちがそこに落ちて行ってもおかしくない。本当にすぐ近くで起こっている出来事です。

たしかに漫画的に演出されてはいる。しかしこれを他人事として感じられる人は幸福です。

働いて、少しでも障壁や矛盾にぶち当たったことがある人なら、ゲイツの孤独と悔しさが手に取るように分かるでしょう。どう探しても、どうあがいても希望がどこにもない、という状況が。

それらがまったくナマの東京の街で起こる。

夜の新宿歌舞伎町だとか、丸の内のビジネス街だとか、霞が関の庁舎とかではなく、その辺の道端で起こる。

本当に運がいいことに、個人的なことを言えば、この映画で事件が起こる場所は、全てと言っていいほど俺が見たことのある場所だった。

品川の港南口で帰宅途中のサラリーマンに向かって振りかざされる包丁。

新橋のSL広場前のモニターで流れる政治家の討論番組映像。

六本木のミッドタウン前の路地ですれ違う犯人と刑事。

全て、俺が遭遇していても全くおかしくない場所で事件が起こっていた。

もうとにかく俺には、ここで起こっていることすべてが、「実際に起こってもおかしくないこと」として認識されたわけです。その手にとって触れることができるようなリアリティは、物語においてはこの上ない快楽になります。

卑近であり、根本的にしょぼい。それが我らのリアルで、この映画はそれを正しく描写しています。だからこの映画に対して、スケールが小さい云々という批判があるとしたら、それは的外れです。これは我らのリアルを描いた映画だからです。

 

友情について。

 

はっきり言って、これがこの映画の全てと言ってもいい。

原作と比較したときにも、この部分が最もブーストされていた。

これほど魅力的に友情を描いた映画を見たことないくらい。(未見ですが、同監督によるゴールデンスランバーや白ゆき姫もそちらを強化した映画らしいので、見てみたい)

結局、登場する男たち5人に、親愛を感じられるかどうかがこの映画を好きになるかどうかの境目でしょう。

まず、5人の出会いの導入。これが完璧だった。

前述のとおり、職場いじめと派遣切りに遭い、行き場を失って落ちていく主人公。

そして流れつくタコ部屋。

ここで5人の仲間たちが出会う訳ですが、その結びつき方が本当に美しい。

その日の仕事を終え、部屋でくつろぐ5人。

それぞれの過去の経緯を語りあう中、部屋の隅で俯いている主人公。

(これが上手い。鑑賞者は既に主人公の過去を知っているので、改めて話すのは二度手間でしかないのでその省略と、話しかけられない彼の内気さ孤独さの表現を同時にやっている)

それが、ふととある問題について計算力を見せつけたことで「お前はビル・ゲイツか」と突っ込まれ、それがそのままあだ名になる。彼はそのお返しに、4人それぞれにあだ名をつけ返す。

あだ名を付ける。この行為が素晴らしい。このシーンは本当に上手かった。ゲイツが心を開き、それが受け入れられる瞬間です。あだ名を付け、それが相手に受け入れられる、それは友情の証に他ならない。

30を過ぎた男たちがこれをやることに意味がある。それぞれに、孤独に生きてきて、どん詰まりに至った彼らにとっては、ただの名前ではなく、希望であり支えとなる。

またこの5人のキャラが本当に良い。全員めちゃくちゃキャラが立っている。

ゲイツ、カンサイ、メタボ、ヒョロ、ノビタ。誰もが俺たちのすぐ傍にいるようなリアルなキャラで、かつ漫画よりも遥かに漫画っぽい。

ブラック企業を首になったプログラマー、売れないバンドマン、冴えないデブ、眼鏡のニート、この時点でもうおなかいっぱいであるというほど完璧な組み合わせの4人だが、白眉はやはりヒョロというキャラクターである。彼はフィリピン人の母親と日本人の父のハーフなのだ。

俺はもう、めまいがした。この映画の徹底的な、そして神がかった速報性に。

フィリピン人のハーフといえば、思い起こされるのは川崎のいじめ殺人の主犯格の少年だ。

ヒョロは純粋無垢の美しい少年として描かれるので、二人の存在は全く別の意味を持つのだが、重要なのはフィリピン人のハーフという存在が日本の一部であることの象徴となったタイミングでこのキャラがスクリーンに現れたということです。それはまさにリアルとしか言いようがない。

バブル期に生まれたこれらの子供たちが、今俺たちの前に現れている。過去の歴史から繋がる現在に我らが今いることを描写する、ということは、今我々がいる場所がどこかなのかをも表現する。この映画に現代日本の一側面が集約されている。

これは一種の奇跡だと思います。

企画立案からの制作期間を考えてもこれは偶然でしょう。しかし必然の偶然である。この映画が徹底的に現在を追求したことによって、必然的に時代と衝突したリアルです。

 

そして、ヒョロは死ぬ。父親に会いたかったという願いをかなえきれずに。彼らは国籍を超えて友情で結ばれ、その友情のために殉じる決意をする。

ここがこの映画の奇跡です。そしてターニングポイントでもあります。ストーリーにとっても、鑑賞者の感情移入にとっても。

ヒョロの死を冒涜したタコ部屋の監督を、4人は撲殺する。順々にスコップを手渡しあって。

ここでこの映画は我々に問いかける。

この状況に置かれた時、お前はスコップを手に取って男を殺すか、と。

 

おそらく、俺たちは、殺さないだろう。

猛烈な怒りに駆られながらも、保身や倫理や恐怖や理性や法の問題に縛られて。

しかし彼らは殺す。躊躇なく叩き殺し、炎とともに証拠を消し、犯行に向かっていく。

それは、我らと彼らの間に大きく深い心理の隔たりがあることを示すのだろうか。

俺はそうは思いません。

これが物語が持つファンタジーという名のパワーだと思う。

確かに俺たちは男を殺さない。しかし、殺したいという気持ち自体は理解できる。

その、倫理的にぎりぎりのところを超えていく、自分たちにできないことをする、それが物語のヒーローたちの役割です。

この倫理的な問題は、この映画に付きまとう論点、批判点でしょう。

しかしこの映画はそれを受け付けることを織り込み済み、というより歓迎するはずです。

何故なら物語では、その彼らと俺たちとの違いこそが、俺たちの現在の生き方を浮き彫りにするものとして機能するからです。

個人的にはその倫理的なギリギリのところを攻めてくる姿勢が本当に気に入りました。

心が彼らと我らの間で引き裂かれる、これこそまさに物語的体験です。

 

見る者に、俺も彼らの友達になりたい、と心から思わせるほどの友情を積み上げたうえで、このファンタジーをやってのけるというロマン。

これは本当に痺れた。

 

その友情と信頼関係の映像的な表現も、全くもって見事です。

俺がまったく痺れたのは、四人が議員のPR会見妨害のためにメントスコーラをしかける時の作戦風景です。

作戦遂行後、全く会話もなく、視線を交わすこともなく、十字路のそれぞれの方向に別れていく4人。

男たちの友情と信頼を表すのにこれほど見事な絵があろうか。

 

この映画、邦画のご多分にもれず、過剰な音楽と、重要な(というかコンセプト的な)セリフの繰り返しにまみれてはいる。

くどいし、わざとらしいし、安っぽいし、しょぼい。

 

しかし、劇中で最も重要なゲイツのセリフはたった一回、しかも他の何よりもさりげなく吐露される。

そして俺にとってのこの映画の精神もこのセリフに全て集約される。

 

「俺は友達が欲しい」

  

もう既に、友達を手に入れている瞬間に、このセリフを言うことに感動がある。

 

このセリフは、4人の仲間に向けられた言葉であると同時に、その意味を超えている。この時点で彼らはもう既にゲイツの友達だからです。別の誰かに向けられている。

このセリフは誰に向かって語られた言葉なのか。

 

それはもちろん、俺たちです。

彼は俺たちに、友達になってほしい、と語りかけているのだ。

その声はさりげなく、聞き取りづらい。

聞き取れない人もいるだろうが、聞こえた人にとっては、この映画は最高の映画だろうと思います。

 

ということで、予告犯、本当に素晴らしかったです。

まだ脳とハートが揺れている……

風立ちぬ、までの仮説

宮崎駿千と千尋以降、二つ以上のコンセプトの相克という物語エンジンを捨てた。少なくとも、主人公側のコンセプトが圧勝するようになった。その結果、物語から説明とそれに伴う意味が抜け落ち、代わりに印象とディテールが異常に際立つようになった。

ナウシカラピュタもののけ姫においては、登場人物やファクターは常にトライアングルの関係にあった。つまり「主人公」「敵対勢力」「神(超常なる物)」の三者がぶつかる構造になっており、二者がいかに神に肉薄し、そしてそれをどう扱うかが物語の基調となっていた。

しかしもののけ姫で神が死んで、敵も味方の一部であることが明らかになり、三角形は崩壊した。そのため今後は別のモデルが必要になったのだが、しかしそれは前ほど分かりやすいものにはならなかった。

「平凡なるもの」と「超常なる者」の交流に比重が置かれるようになり、敵の存在や意味が非常に弱まった。超常なる者は物語の早い段階から平凡なるものの下に降りてくるか、前提的に味方であるため、主人公側の勢力が強くなりすぎて勝負にならなくなったのだ。

千と千尋では、二者の相克というモデルは採用されていない。一見「千尋&ハク」VS「湯場連合軍(超常なる者ども)」の体裁を取っているが、実は千尋に敵対する理由が湯場側に何も無いため、キャラクターたちは先を争って千尋側に懐柔されていく。

そして超常なる者の多くは最初から千尋の味方についている。であれば物語の趨勢は明らかで、主人公たちの勝利は初めから見えていた。つまり根本的に対立構造が無い物語だった。少女が超常なる者を目指してサバイブするのではなく、超常なる者と少女が互いのサバイブを助け合う構造になった。

続くハウルでは、その構造がより強化された。「ソフィ&ハウル」VS「荒地の魔女」VS「サリマン」の三つ巴で始まるかに見えた物語は、荒地の魔女が早々に戦いから脱落し、サリマンも戦う理由を最後まで見出せずに唐突に投降する。いかにしてソフィとハウルが互いを救済するかに焦点が絞られた。

ポニョでは更に尖る。二人には迷いも葛藤もない。グランマンマーレが味方する以上宗介とポニョは物語中で無敵の存在であり、それに逆らうものは一蹴される。いかにして二人が愛を貫き通すかが物語の主旨で、それに対立する概念は存在しないか、無力であることを見せつけるだけだった。

トライフォースの二角を最初から主人公側が手にしていて、残りの一角が無力な状態だ。それだと敵は存在しないので、物語の目的は「凡人」と「超常なる者の一部」との交感、そして彼らがどう生き残って行くか、になっていくしかない。そして彼らは互いの「平凡」と「超常」を交換し合うのである。

 

そして風立ちぬである。これの構造は、過去作からの続きとして観ようと単独の物語として観ようと、どちらにしても非常に謎めいている。物語の基調は、とにかく死んでも飛行機を作りたい二郎と、彼と奈穂子の愛であり、それは千と千尋以降の、主人公側の関係性とその絶対的価値を描く構造の延長線上にある。 

ある意味非常にシンプルな構造である。だがそれが見る者に(おそらく)避けがたい混乱を生じさせるのは、それに伴って描かれるはずのものがすべて排除されているからだ。

まず、敵がそもそも描かれない。具体的にはこの映画の場合、それは戦争と病であるはずだが、それは存在していることが分かっているだけで、ほぼ描写はされない。二郎の飛行機に乗って死ぬ人間は一人もおらず、奈穂子は自分の病が致命的になる前に自ら姿を消す。二人ともそれは、分かっているものとして、一切互いに語らない。

そして、平凡と超常という、従来必ず維持されてきたモチーフが希薄になっている。これは二郎というキャラをどう解釈するかによっても変化するが、二郎以上の力を持った存在はこの物語には登場しない(カプローニがその存在に近いと言えなくもないが、おそらく彼は二郎に超常をもたらす者というよりは、単なる先達であり、二郎と同じ夢と悪夢を見た者でしかないだろう)。二郎こそがこの物語の推進者であり、限界点である。そういう主人公はこれまで宮崎駿の映画には登場しなかった。これまで常に主人公以上の存在がどこかにいたのだが、二郎にはそのような存在はおらず、ひたすら孤独な戦いを強いられている。

そのような孤独な主人公は、神ならぬ我々と同地位にあるのだから、本来であれば我々の共感を強く喚起しうるキャラクターになれるはずだが、単純にそう言いきれないのがややこしい。堀越二郎、彼が果たして我々と同じ人間なのかどうかは、この映画における彼の描写から言って微妙なところだ。彼は猛烈に頭が切れ、腕っぷしも強く、葛藤も見せず、ほぼ全く疲れを見せずに働き続ける。愛は揺るがず、余計なことを全く語らない。

果たしてこいつは(自分と同じような)人間だろうかという疑念が付きまとう。TWITTERでBLZさん(ID:@blz_bb)に指摘されて僕も初めて気付いたが、あれだけ働いているはずの二郎には、目に隈の一筋も無く、無精ひげの一本も生えてこない。画面は常につるつるで、ただ夢と愛だけがある。それに伴って起こるはずの現実が無視されているのだ。 

二郎を人間の振りをした超人として見るか、超人のようではあるけれど我々と同じ人間として見れるかで、この映画への接し方は大きく異なる。前者であれば地上から離れた雲の上の出来事であり、後者として見れればなんとか地上のメロドラマが成立する。物語の筋から言って前者として見られることを期待しているとは考えにくいが、一方で二郎は前作のポニョの主人公・宗介と同レベルのキャラとしての解釈も可能なのがややこしい。つまり、二郎は全く精神的に変化せずに大人になった宗介である、と。

ただこの解釈は、可能であっても相当グロテスクだ。宗介はポニョを初志貫徹に愛し、それに勝利することができた、二郎もそれと同じだ、と言うことはもちろん可能なのだが、愛の純粋な勝利の要因を、無垢な子供であることを言い訳にできた宗介とは違い、二郎は大人である。二郎は無垢な大人という解釈、それは結局「堀越二郎は我々と同じ人間だろうか」という疑念に跳ね返ってくる。

結局それに対して宮崎駿が取った解決策は、「汚いところは一切見ない」という方法だった。その徹底ぶりは凄まじい。二郎も奈穂子もその肉体的な汚さは一切描写せず、二人の愛には汚さが全くない。運命的に出会って初志貫徹で愛し抜くが、生活上の不都合は全く描かれず、セックスシーンも(当然だが)描写されない。互いに都合のいいところだけつまんであとはサヨナラするだけの異常な人間関係とも見える。

神ならぬ人が主人公で、それが競争無に最上位に存在する物語である以上、無数の仮説が成り立つ状態だ。たとえ天才と言えど、死ぬほど働きつつ、愛を得るだけで人間の一生は限界で、それ以外のことを考えている余裕はなく見るに値しない、という物語ともとれる。ハウルやポニョが、ぎりぎりポジティブにそれを表現できたように。

 

だがまさにその意味において、風立ちぬはこれまでの作品とは異なると僕は思う。それは、この物語が、病も戦争も、描写されないその裏に厳然としてあるものとして描いているからだ。ハウルでも戦争はあった。ポニョでも大洪水があった。そこでは多くの死があったはずで、そしてその死は全く描かれなかった。しかしどちらの物語でもそれは寓話の中の出来事であり、本当の血が流れる死だったかどうかは我々には分からないものだった。

風立ちぬの死は違う。太平洋戦争で二郎の設計した飛行機に乗って大量の人が死んだり殺されたりしたのは間違いない事実だし、奈穂子がやがてぼろぼろになって死んだのも間違いない事実だ。二郎も、本当は目に隈を作り、やせ細り、体からきつい臭いを出して、設計図に鼻の油をこすりつけながら仕事していたのだ。ただそれらが、まったく描写されていないだけで。

 

これらを踏まえて、今、僕が考える仮説はこうだ。

最早、「神」も「敵」もおらず、「我々」だけがいる。二郎とは、リアリティを超えた我々の限界点・臨界点を表象するキャラである。風立ちぬで実際に描かれている純粋な愛と夢の希求はあくまで水面上の出来事であって、この映画の鑑賞は、描かれていない水面下の地獄を見る者が補完しないと成立しない。この映画は、我々は既に地獄を十分見てきたのだからわざわざ取り出して語る必要はなく、その地獄が絞り出す一滴の輝きに目を向けよう、という試みなのではないか。そうであればようやく、「美しいところだけ好きな人に見てもらったのね」という呟きに合点がいく。これは、「全力で美しいところだけ見せよう。実際にはそうじゃないけど」という意味だ。つまりこの映画は、壮大な、凄まじいやせ我慢である。

でもそれは、汚いところを知り尽くした大人だからこそ辿りつける境地で、現に汚い所で生きている大人や、これから汚い場所で生きていく運命にある子供が見るべき物語なのかどうかは分からない。そしてもちろんそれが物語として面白いのかどうかも分からない。僕が「風立ちぬについては爺になってから考えたい」と思うのはそういう点においてだ。歳を取った時に、自分がそうした境地に到達できる気は全くしないが、とにかく一度爺になってみないことには分からない。

 

ジブリ映画のキャッチコピーは、その言葉が内容を体現するという点で常に秀逸だが、風立ちぬでもそうだ。

「生きねば」。

これは実際には、「いろいろあるけどとりあえず前提として生きることにしよう」、という意味だ。この映画そのものだと思う。この映画ではその、「いろいろあるけど」が全て省略されているという意味において。

るろうに剣心 伝説の最期篇

るろうに剣心 伝説の最期篇」を観ました。

まず、結果から加点方式の採点で思い切りバラすと、大体以下の通りです。

ドラマ 2点
音楽 -30点
バトル 250点
=合計222点

(以下バトル内訳)
バトル全般 50点
二重の極み 0点
秘剣・焔霊 20点
紅蓮腕 30点
天翔龍閃 150点

 

上記の通り、非常に歪な映画でした。まともにゼロ知識及びノーガードでこの映画に挑んだ場合は、ただ戸惑いだけが残るのではないでしょうか。または、下手に原作に思い入れがある場合は、打ち捨てられたあまりに多くの物語要素を思いやって失望するしかないのではないでしょうか。

 

僕の場合、この映画への期待点は、「チャンバラにおけるアクションと情動の爆発」という一点であったので、それにはまさに答えてくれた。しかし、それに注力するあまり、他の全てが犠牲になっている。しかしそんな僕みたいな都合のいい観方をしてくれる人が、一般的にどれくらいいるのか。

 

何故ここまで多くのものを犠牲にする必要があったのかは分かりません。金が無かったのか、時間が無かったのか、余裕が無かったのか。

 

良かれ悪しかれ、この映画を楽しむ、という観点からすれば、とにかく今作の本質を理解する必要があります。今作のストーリーの基本線は、「剣心がいかにして志々雄真実を倒すか」です。その一点しかない。もっと具体的にはっきり言えば、「剣心が天翔龍閃をいかに体得し、それを放つかまでの物語」です。それしかない。この根本的なストーリーラインに早い段階で気が付く必要がある。

 

だから、各キャラクターの思惑や感情が縦糸横糸の複雑な絵を描いて、剣心と 志々雄の最終決戦に収斂する原作を知っていて、それを期待するファンにとっては、今作はやたらと剣心の葛藤や重荷のみに終始する展開にイラつくことになるでしょう。

 

したがって、僕の考える結論を言えば、この映画の鑑賞するにあたっての必勝法は、

「剣心が天翔龍閃を放つまでをただひたすらに期待して待つ」。

これです。

天翔龍閃が何なのか知らない人は、とにかく「剣心が苦心して習得した奥義が最後にやってくるはず」という漠然とした期待だけを持ち続ければ良い。 「天翔龍閃は左脚を踏み込んで繰り出す神速の抜刀術」という知識を事前に仕入れておくのがベターと言えばベターですが、そんなことはおそらくどうでもいい。

 

天翔龍閃は、完璧でした。 

るろうに剣心」という映画の最大の魅力は、フィジカルを限界まで駆使して通常の人間の挙動を超えることの美しさ、そしてそれによって感情までも表現すること、成立しえないものを成立させたときに生まれる迫力にあります。天翔龍閃とは原作における絶対奥義であり、あまたの技の頂点に位置します。しかしそうでありながら、表現としては「ただ猛烈に素早く切りかかる居合抜き」でしかない。漫画では迫力ある絵で表現すれば嘘を付けたものが、これを映画で、役者の肉体でやるとなればどうやればいいのか。最も重要なアクションが、最も難しいのです。まともにやったらどう考えても寒い。しかし、彼らはやった。これを成立させた谷垣アクション監督と佐藤健には心から称賛を贈りたい。

 

 

そして、物語の最後の最後に殺陣の頂点を持ってきた構成によって、この映画がアクションの、フィジカルの復権を高らかに歌いあげていることに感動します。

この映画の脚本に対し僕が唯一、心から共感するのは、「天翔龍閃を志々雄を倒す一発のみのために取っておいたこと」です。原作では志々雄戦まで何発も放たれたこの技は、映画では是非ともこうするべきだった。この構成にしていなければこの映画は完全に目標を見失って破綻していた。そして満を持して放たれた奥義は、絶対の破壊力で志々雄を一撃で倒す。 限界を超えて肉体を酷使し続け、あらゆる技を尽くし続けたこの映画にふさわしい、辿りつく場所として完璧な、堂々たるフィナーレと言っていいと思います。

 

しかし、

しかしです。

僕がどうやってもこの映画を擁護できない最大の問題点は、剣心の「赤い胴着」の扱いです。これには本気で驚かされた。

蒼井優演じる恵が、東京に戻ってきた剣心に「赤い胴着」を手渡すわけですが、これは物語を破綻させている。誰もが、「京都大火篇」で物干しざおに掛かったこの胴着をこれ見よがしに映すカットを観たときに、「やがて東京に帰って来た剣心を薫が出迎え、この胴着を渡し、決戦に赴くヒーローを見送る」という完璧な絵を思い浮かべたはずが、実際には全く無意味なシーンに堕しています。

この胴着は剣心とヒロイン薫の関係の象徴であり、流浪と後悔の生活を送っていた剣心を太陽の下に連れだした、愛の証だてであるから、二人以外には触れることができないはずが、その事実が思いっきり無視されている。どうしてこんなことになったのか。僕には、これはキャスティングの契約的な問題があったとしか思えない。つまり契約上、後篇でも蒼井優を必ずどこかに出演させる必要があって、脚本的にそれをぶっこむことができたのが、このシーンしかなかったという。観客がこれのストーリー的な矛盾に気付かないと思っているとしたら、あまりに馬鹿にし過ぎている。

 

他にも、剣心の斬首手前に至るまでの捕縛と解放のグダグダ(縄を無意味に縛ったり外したり)など、無駄としか思えない構成に満ちたこの映画は、本当に歪です。期待するものによって評価が大いに変わる、稀代の博打映画と言えるでしょう。

地獄でなぜ悪い

園子温の「地獄でなぜ悪い」を観ました。
ちょっと走り書きで感想を書きます。

ずいぶん久しぶりに頭からしっぽまで彼の映画を楽しんだ。「恋の罪」は楽しいポイントをほとんど一個も見つけられなかったし、「ヒミズ」は過剰に無駄な破滅の傾向に疲れてしまったし、「希望の国」は楽しいとかそういう映画ではなく時代の刻印みたいな映画だった。

その点「地獄でなぜ悪い」はもう徹底的にエンターテイメントだった。タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」とかで楽しめた人間なら、確実に満足できるだろう。映画を撮る、という目的に登場人物たちの抱えるストーリーが集約される瞬間はまさに巨大な祭りである。

ごちゃごちゃと救いようのないほど混乱して、行き場も解決策もない状況が、「この夜に、映画を撮る」という手段によって瞬間的にクリアになる様は、万能感を伴った、恍惚さえ覚える物凄いカタルシスだった。

正確に言えば、致命的なカタストロフィの予兆というカタルシス、だった。

実際に描かれたカタストロフィはそれはもう素晴らしいものだった。
が、もう観ていてその瞬間から分かっていたが、この「予兆」が最も凄まじい絶頂で、実際にカタストロフィが起こってしまえば、それは予兆の時に抱えていた感覚以下になる。それがどれだけ凄い描写でも、それはどうしようもない。遠足前日、文化祭前夜、セックスの直前、ゲームの発売日前日、あらゆる「この世で最も楽しいこと」の直前と同じだ。想像力がたまりにたまって爆発したとき、それは現実を凌駕する。そういうごく限られた状況を映画内で引き起こしたこと自体がめちゃくちゃすごい訳ですが。

そして、その「予兆と現実」とは全然別の話で、思うことがありました。映画を観終わってしばらく経った今日思ったことなのですが、俺は園子温とは「血」に対する感覚がかなり決定的にずれているのだな、と。そして多分だからこそ俺にとっていまだに彼の映画が魅力的なのだな、と。

簡単に言うと、俺にとっては「血」は常にリアルなので、それそのものがエンターテイメントになることはない。しかし園子温は血で遊ぶことができる人、偽物の血と本物の血の違いが分かっている人なので、ギタリストがアルペジオを爪弾くのと同じくらい自然に人を出血させる。

俺にとっては血はどこまで行っても血だ。出来が良ければ本物になり、悪ければ偽物になる。しかし園子温の血は物凄く出来がいいのに表現されているのは嘘の血なので、俺の頭は混乱することになる。

混乱するのは血だけが理由じゃない。この映画を楽しむには(多分、ですが)このフィクションの中に秘められたノンフィクションを感じ取らなければならず、そうでなければ結構つらいことになるのではあるまいか、そしてそれを察する人はフィクションに逆襲されるのではないか、と思うからです。

どういうことか。この映画の本体は実は(っていうほどでもないけど)ノンフィクションなのだ。この映画、セリフ回しにおいては園子温の例の古臭さ、わざとらしさは全開で、例えば冒頭の不良の喧嘩や負傷したヤクザを称賛しカメラに収めようとするシーンなんかは、もういい加減この手癖やめてくれないかな、と辟易する。

でもこのわざとらしい絵と言葉で映画を無理やり推進してしまうのは、これが園子温の中では事実だったからだ。本当にあったことだから、でたらめでも説得力が消えないのだ。彼は本当に、長いことファックボンバーズ的なチームを結成していたし、本当に不良の喧嘩を撮ったし、ヤクザも撮った。組長の娘と間違ってセックスして殺されかけたことも(たぶんそれっぽいことが)あった。

そして、最高の映画が一本撮れたら本当に死んでもいいと思っている。嘘に塗り固められた演出の中で、実は中身が全部事実だから、この映画は輝いているのだ。ストーリー構成自体は、まさにパズルのピースがはまるように見事で、そこだけ追っても楽しめる映画になっている。しかし演出においては物語外に説得力が依拠している。その世界の両輪に乗っていけなければ、あの嫌ったらしい「全力歯ぎしりレッツゴー」のCMソングはただただウザいだけだし(あれは結構マジで悪趣味だと思う)、堤真一は単なる気持ち悪い狂人だ。

エンターテイメントの顔をした本質的にはドキュメンタリーの映画を、エンターテイメントとして提供してくるから混乱が起こり、洗練されない部分がいつまでも巨大な染みとなって残り続ける。

だから仮説ですが、この映画のノンフィクション性を感じ取れない人にとってはこの映画はかなり苦痛である気がするし、一方で僕のようにノンフィクション的エンターテイメントに感動する人は、溢れかえる大量の血にむせかえることになる。そして、この映画を「純粋に100%きっちり」楽しめる人は、園子温と同じように本物の血と偽物の血の区別ができる人なのではないでしょうか。

とはいえ僕も十分に楽しみました。十分すぎるほど。むしろ僕が園子温を追いかけるのは、そういう違和感が常に残り続け、理解しきれない場所が残り続けているからです。その洗練されない染みの部分、人によって変化するこことの距離により、この映画と園子温の評価はずいぶん変わるような気がします。

エヴァンゲリオン:Q

エヴァQ観ました。感想短めに。

短めに、というか正直に言うと一言、やっちまったな、だけで終わりなのですが。

冒頭15分の戦闘アンド各キャラ再登場は非常に熱かった。特に葛城ミサト艦長。三石琴乃の声が映える響く。ブンダーだかベンダーだか忘れましたが、飛行戦艦のカッコ良さも非常にグッドでした。

まさかそれで終わりとは思いませんでしたが。

この映画、いつも以上に複数回鑑賞を前提にしているとは思うが、それにしてもとにかく分かりにくい。画面で何が起こっているか追うのも忙しいのに、今起こっている設定が既知なのか未知なのかも分からん。エヴァMrk6が何なのか説明できるやつ何人おるのかしら。

ただ、ストーリーとしては物凄い単純。破から14年後の、サードインパクトが起きた世界。目覚めたシンジがかつての仲間たちから疎外されて、旧ネルフに戻り、渚カヲルといちゃいちゃして、エヴァ13号機に乗ってフォースインパクトを起こす、という話(だと思う)。

しかしこれが、解釈とか文脈での楽しみ方は置いておいて、極めて盛り上がりに欠けた。

問題は、分からんまんまなのに話だけがどんどん進んでいくことだ。僕のような馬鹿を基準にして書きますが、未知の要素が即座に共通認識として「設定」され、すぐさまぶち壊されるために思い入れが発生する余地がない。現状把握できていないものに更に未知を重ねる、というのは作劇法としては極めて不親切だし、結果としてその物語はあっという間に他人事になる。ガキの振る舞いで極めて重大な事件が引き起こされるかもしれないのにだーれも説明しない古臭い稚拙なディスコミュニケーション。これは「はぁ?」という人が多くてもスタッフは誰も文句言えないと思う。

最後のシン・エヴァンゲリオンでどうなるか相変わらず楽しみですが、それは「ここまでつきあったからまあしょうがない」という意味と、「これを最後盛り上げられたらマジで凄いな」という意味合いにおいてであって、これは観客相当離れるだろう。熱狂もないし、難しすぎるもん。

他の人の感想を聴いていると、この「やっちまう」のがエヴァンゲリオン、という意見が多くて、僕もその通りだとは思う。このQで物語のテンションが落ちるのは予想していたし、たぶん何回も観て、ああでもないこうでもないと言い合うのが楽しい作品だろう。

しかし僕が思うのは、単純に物凄く分かりにくくないか?(話語りが下手くそではないか?)ということです。同じ話を伝えるのでも、もうちょっとうまくできた気がしてならないのです。