ダークナイト・ライジング

ネタばれ全開です。映画をご覧になっていない方はお読みにならないでください。


前作「ダークナイト」から8年後。「光の騎士」ハービーデント殺しの罪を背負い、人々の前から姿を消したバットマンブルース・ウェインは、自宅で誰と会うこともない隠遁生活を送っている。長い年月に渡る戦いで満身創痍となった彼は、杖を突きながらでなければ歩くこともできない。

犯罪者を強力に取り締まる「デント法」が施行され、平和となったはずのゴッサムシティに、ベインと名乗る男が下水道で謎めいた組織を率い暗躍を始める。彼を追跡する途中で負傷してしまうゴードン署長。病床を訪れたブルース・ウェインに「今こそバットマンが必要なのだ」と説くゴードン。

新人警官のブレイクの奮闘もむなしく、ベインは勢力を拡大していく。彼はブルースの指紋を奪い、証券取引所を強襲して市場を操作し、彼の資産のことごとくを奪い去る。自宅以外のすべての財産を失ったブルースは、信頼するに値すると判断したミランダにウェイン財団の全権を委任して社会の表舞台から去る。

迎えたベインとの決戦。バットマンは敗れ、「奈落」と名付けられた世界の果ての監獄に収監される。

ベインはバットマンの全ての武器を奪い、ウェイン財団が極秘裏に開発していた小型核融合炉を入手。これを、ゴッサム全域が一瞬で灰と化す超強力な爆弾として、彼はゴッサム市民全員を人質に取る。ベインは言う、「この爆弾のスイッチはゴッサムのとある一般市民に渡した。誰か一人でもゴッサムから逃げだせば、その誰かがスイッチを押すだろう」。外界から遮断され、孤立するゴッサムシティ。ベインが掲げる「自由」の名のもとに、暴力と簒奪と私刑がめくるめく展開される。

極限状態に達したゴッサムシティ。はたしてバットマンはよみがえり、ベインを止めることはできるのか・・・



というのがこの映画の大筋。

そして僕の感想はどうか。一言で言えば、「失望」です。

もちろんそれは、この映画に何を求めていたかによって変わると思う。
僕がこの映画に求めていたのは、いつも他の映画を見るときと同じように、「作者が何を表現しようとしているか。そして表現するために何をしようとしたか」を見ること。たとえ表現できていなくとも、そのために何を捧げたかが伝われば感動できるのが映画というものです。

そして求めていたもう一つはもちろん、「前作ダークナイトで達成したものを超える」こと。あの完璧に限りなく近い前作の続編なのだから、それを求められるのは仕方がない。

僕はこの二つとも、クリアできているようには見えなかった。

最も分かりやすい点を言えば、物語終盤の展開が内輪ネタの回収に終始したこと。つまり「影の同盟」のことです。

実は、ミランダこそが「影の同盟」の首領の娘だったのだ。そして、ベインはその手下に過ぎなかったのだ。

だからなんなんだ。どうでもいいって。バットマンオタクでもなんでもない僕からすれば、ラーズ・アル・グールの遺志や理想がどうとか、死ぬほどどうでもいい。

そう感じるのは結局、そのための描写が全くなかったからだ。最低限、「影の同盟」という組織が、従前から世界ないしゴッサムシティにその悪の根をはびこらせ蝕んできた危機であるという描写が絶対に必要だった。しかしそういう叙述は何もなくて、ただ前々作に出てきた設定の回収にすぎないものだから、唐突な「あっ、そう」以外の何物でもない。こいつらがこれまで一体何をしてきたというのか。

そして最大の問題は、この「影の同盟」のおかげで、映画のイメージが膨らむどころかしぼんでしまったことだ。どういうことかと言えば、結社というのは思想信条を一つにするところの組織が、たとえそれが狂気であれ、論理的な思考を持って共通の目的に向かって活動するものだということ。それは、どれほどの反社会的な行為を行う連中であっても、理解可能な存在にすぎない。

つまりその時点で「影の同盟」は前作のジョーカーに負けている。彼の行為は論理を超え、常軌を逸していた。だからこそ問答無用の恐怖と迫力があり、稀に見る悪として現出した。そしてさらに重要なのは、ジョーカーが、理解不可能な存在であるのに、最もリアリティのある悪となったことだ。徹底的で純然たる暴力、「光の騎士」の対立概念、ごく普通の都市に忍び寄るごく普通の人間の極北としての描写など、あらゆる現代的なリアリティを象徴的に駆使した結果、ジョーカーはリアルとなった。分からないのに分かる、という矛盾した命題を描いたこと、これが前作「ダークナイト」のもっとも偉大な達成だ。それに比べれば「影の同盟」とかいうのは全てが最初から理解可能な範囲にある。

それから、「影の同盟」とかいう組織のそもそもの最終目的に問題がある。彼らが求めるもの、それは自由だ。だが考えてみると、前作でジョーカーが暴露し、彼の恐怖と狂気の源となったもの、それは自由だった。ジョーカーはとっくの昔から自由だ。彼が示したのは、我々はすでに全員、自由の世界に生きているのだということだった。そう考えると、「影の同盟」は既にあるものを求めているただのバカにしか見えないし、「とりあえず悪い奴ら」と言う以上の意味を彼らに見出すのは不可能だ。

もしも前作を超えるなら、そして「影の同盟」という組織をマジに黒幕として描くのであれば、その狂気と彼らが求めるところの世界が何なのかという、より真剣で徹底的な描写、およびその対立概念が絶対に必要だった。

IMAXカメラを駆使して撮影した映像は、相変わらず物凄い。街全体が封鎖され、極限状態に追い込まれる情景は、確かに半端でない緊迫感があった。でも結局それは、前回達成したものの拡大再生産でしかない。

劇中、誰が言ったセリフか忘れたが、印象的な言葉があった。「バットマン、お前がしてきたことは嘘を作り上げることだ」みたいなセリフだ。
それが唯一、前作を受け継いで超えることができるかもしれないと感じたシーンだったけど、それ以上概念が広がっていくことはなかった。

映像としては楽しんだけれども、別に作る意味を感じられなかった映画。アンフェアかもしれませんが、これが僕の素直な感想です。

ツリー・オブ・ライフ

例によってネタばれなので、観ていない方は読まないでください。僕はこれは、是非観た方が良い映画だと思います。




映画開始、冒頭10分で遠くの席からからいびきが聞こえてきた。ひどいと思うけど、気持は分かる。

しかしこれは集中力振り絞って観ないともったいないと思います。別に難解じゃないけど集中力は要る。いい映画でした。10年前にシンレッドラインを観た時は、観たという事実しか最早覚えていないくらい、何も残らなかったですが、これはめちゃくちゃ楽しんだ。

僕の勝手な視点ですが、この映画を楽しむには二つの力が要る。1つ目は言語化されない(あるいは超し辛い)情報を楽しむ集中力。繰り広げられるのは象徴と印象と断片の嵐なので、一義的な解釈を求める人にとってはこの映画は地獄だと思います。2つ目は現在の時間を生きる我々の位置づけに関して何らかの認識があるかどうか。キリスト教の知識とかそういうのは2次的なものだと思います。

人によって当然違うとは思いますが、僕の頭の中でこの映画の鑑賞スイッチが入ったのは、冒頭の母親の独白「人には二つの道がある。神の意に沿って生きるか、世俗に生きるか」みたいなセリフが現れた瞬間です。ここで、2つ目の認識がある人は集中力のスイッチが入ると思う。

どういうことか。それは、現代が、「神がいない時代」もしくは「神がいるんやらいないんやらさっぱり分からない時代」だということは既に我々の前提になっているので、このセリフに基づく認識はやがて破綻するのが明白だということがいきなり分かるからです。前者が善、後者が悪だとしたら、どうやったら我々は前者のまま生きられるのか。というか僕自身を含めてほとんどの人間がそうであることが多いですが、後者となって生きることは悪ということなのか。この2者は、現代を正確に描写しようとする限り確実に衝突する。それがこれから冷酷に展開される期待でわくわくするわけです。

そして期待通りにブラッド・ピットがその役を担ってくれる。当初は厳格な父(=神)であろうとして息子たちを導いていこうとするのが、金や名誉や職といった世俗的な自己の値打ちを失って単なる頑固で愚かな親父に堕ちていく。彼には息子たちをどう育てていいのか分からない。どっちに向かっていけばよいのか何が正しいのか自分でも分からないからです。

息子たちに対して拳を振るわせようと教育するシーンが非常に象徴的です。それは神に対する不審や反逆や失望ですが、子どもたちはそれに従おうとしない。それが今まで父親が示してきた指針とまるで違うから、従おうにもそこには嘘と違和感しかない。
そして最もリアルなセリフは「あまり善人になりすぎるな」でしょう。神の世界は極端で、完璧または無償の善とか愛しか許されないはずなのに、「適当に善人になれ」、というのはおかしい。そしてそれは同時に、神を捨てたところで何をよりどころにして良いのか全く分からないので「悪になれ」とも言い切れない、不安の表れです。

そしてこの映画を観ていると気が付く。この映画に登場する子どもたちは誰ひとりとして、「神」という言葉を口にしない。彼らにとっては最初から神はいない。その代役が父と母であるわけですが、彼らの威厳は著しく失墜している。そして彼らは神がいないと認識しているがために、自分にもたらされているとてつもない自由におびえている。語り手の少年は自分の中にある憎しみとか暴力とかを抑えきれなくて恐怖している。そして実際に暴力を犯したときには決まって後悔がやってくる。善きものになりたいという意思があるからですが、何が善きものなのか、そこにどう根拠を見出していいのか良く分からない。これは少なくとも僕にとっては非常にリアルです。

と、これだけでも既に楽しめる要素は満載ですが、このあたりは要は「神なき後の世界」を描いているという意味で、ノーカントリーだとかダークナイトだとかと同じ世界観なので、それはもはや近年のアメリカ映画の王道です。つまりほとんど現代の映画の前提条件で、別に新しい話ではない。

この映画が最も楽しいのはやはりその現代家族物語のメタファーに宇宙開闢と生命誕生を持ってきたところでしょう。この直感的大飛躍に乗っていけるかどうかがこの映画を楽しめるかどうかの境目だと思います、結局は。

神の不在と探求を表現するために、いきなりそんじょそこらの一般家庭から宇宙に跳躍する。これはめちゃくちゃだけど、筋は通ってる。そしてめちゃくちゃで謎めいているから、次の瞬間何が起こるか全く分からなくて楽しいのです。つまりそれは芸術を芸術たらしめる根幹の一つ、「いかがわしさ」です。

善とか悪の自由と無根拠性が、宇宙の鳴動や生命の誕生やら進化やらになぞらえて映される。いや、それは飛躍しすぎだろうと思う。しかしわくわくする。神への祈りが繰り返し繰り返し、この何やらよく分からない映像の中に吸い込まれていく。ここの中のどこかに神がいるのか。これが我々にとっての神なのか。いや、全然いないように見えるんだけど、そういうことでいいのだろうか。相手がでかすぎるしよく分からない。もちろん、分かるわけがない。分からないからこの映画に登場する人物たちはみんな困って不安そうにしているのだ。

この徹底的な分からなさっぷりが、印象が一貫して統一され、鍛え上げられた映像とともに語られるわけですが、ついに訪れる(ほぼ)ラストのシーンがさらにまた秀逸です。記憶と幻想の中で、語り手が過去に出会った人物たちと再会するシーン。どこだか良く分からない場所で、死んだ弟や、今はおそらくもういない父や母に出会う。これは完全に天国のイメージです。しかし決して天国(=神のいる場所)ではないことはこの映画を観てきた人たちには分かる。これまでずっと、幻想的でありながら、現実にあったはずのものを映し続けてきたために、最後のこの幻想的な風景も、語り手の頭の中に生まれたイメージだと分かるからです。これは二つの逆転を意味している。一つは、天国(のようなもの)が見つからないがために、逆に我々の頭の中には存在しうるという希望。もう一つは、この幻想が、あのわけのわからんかった宇宙の映像と重なり、宇宙の歴史が我々の中に刻まれている(と錯覚させる)といういかがわしい逆転です。

こりゃわくわくしないすか? 僕は久しぶりに映画でこういう楽しみ方をしました。

星を追う子ども

観てきました。以下、完全にネタばれなので観てない方は読まないでください。

「秒速5センチ」以来何年ぶりかしら? そう言えばあれを観に行ったのも公開初日だった。僕、この人のファンなのです。中二病をこじらせたというより、もはやランクアップして魂の純粋さを伝えられるほど病を極めた己に正直なスタイルがとても好きなので。

まずは、素晴らしかったです、期待にたがわず。「期待」というのは「イメージの機銃掃射」のことで、少なくともそれだけは観られるだろうと。デザインの細部は完全にスタジオジブリで、何も知らない子供か外人に見せたら間違いなくジブリの新作だと勘違いされるだろうけど、それは別にいい。そういうのがやりたくてしょうがなかったんだろうから。選り取り見取りのパクリ要素が充満していたけれど、その総括は僕にとっては基本的にどうでもいい。

とはいえ、そのパクリ要素がこの映画にのめり込むための唯一の壁でもあることは指摘しておいた方がいいとは思う。古今東西のファンタジー物語において、最も重要で高い壁は、日常から非日常へのシフトなのは明白です。そこに最も作家の手腕が問われる。モノによっては初めから非日常の中で物語が始まるものもあるけれど、本当にその作品を同時代の物語にしたいのなら、現実から始める必要がある。この映画ではもちろんそうなっている。ヒロインであるそんじょそこらの娘が、父親の形見の不思議な鉱石をよりどころに異世界からの声を聴く。学校で流れる噂、「鉄橋の上に巨大なクマが出る」。そこまではいい。しかし、ある日唐突に少女の前に現れるそのクマが、そのまんま「タタリ神」なのです。そしてその少女を助けるのがそのまんま「ハウル」な少年。ここはがっくり躓きそうになった。

が、そこを乗り越えれば後はイメージの絨毯爆撃が待っている。実際のところ、上映時間の2時間が物凄く長く感じられた。どこまでもどこまでも奥深くに入って行って、ずいずい進んでいくから、映画の途中でもう2時間以上軽く経っているのではないかという気がしてきて、いつスクリーンに、「第1部完。第2部は来年末公開」というメッセージが現れやしまいかとわけのわからない不安に駆られたくらいです。それくらい、この映画は遠くまで連れて行ってくれる。

そして何よりも僕は、「やっぱりこの人分かってるよな〜」と思うのです。それはつまり、少年の断髪シーンと、全ての食事のシーンと、終着点に辿り着くときには少女は少年とともに行く、ということ。全て絶対に必要なシーンだった。
断髪。それは古来より、最も手軽で分かりやすい変身であり、男のロマンである。
食事。異世界で食う現実世界の「うまい棒」、蒸かして食う異世界に生える芋、そして訪れた村で振舞われる心づくしの手料理。映画が進むごとにどんどんうまそうな食い物になっていく。料理によって異世界に踏み込んでいくさまがはっきり分かる。そしてそれが魅力的なものとして描かれる。ストーリーが進んでいくことそのものの肯定です。

そして終点に辿り着くときには、少女は少年とともにある。おっさんじゃ駄目なのです。それは理屈じゃない。少女の相棒が最後までおっさんでは、それは最早ジュブナイルではないのです。

要するに僕はめっちゃくちゃわくわくしながら観ていたのです。「これ最後どうなるんだ? どうなってくれちゃうんだ?」と。

イメージが質、量ともにでかすぎたために、期待が盛り上がりすぎたのです。自分の中で勝手に。あまりにものめり込みすぎたために、ラストはもっとどでかい花火がぶち上がると思っていたら、そうでもなかった。

勿体ない結末だったと思います。これはこれでいいとも思う。しかし個人的には、ヒロインが長い時間を掛けて旅をして、探求の結果見出されるものを提示してほしかった。そうはならず、現象としては「おっさんの恋人への未練の結実と代償」が語られただけだった。好意的に読解すれば、少女は大切なものを失い、それでもたくましく生きて、現実に戻って行き、旅そのものが彼女に見出されたもので、それは解釈を超えた成長というトレジャーである、と言えなくもない。それはリアルな物語で、しかも多義的に解釈することができて、神話的に優れているのかもしれないとも思う。それでも勿体ない気がして仕方がない。

イメージの津波をくぐりぬけて生き残ってきたヒロインが、最後に選択する回答が示されていても良かったのではないかと。それはおそらく見出すことができていたら物凄いパワーを持ったのではないかと。なぜならヒロインは物語の最初から常に受動的で、何も自分では選んでこなかったのだから。ドラマの構造的にも、おっさんの欲求(恋人の復活)への対立概念が存在しないことで、昇るべき先が消えている。その欲望はヒロインによって打倒されるべきだった。というより、打倒される「はず」だった。

結局、恋人を失ったおっさんの心情に、新海誠が同情しきっていることがこの結末になった最大の要因だろうと思います。おっさんを否定することが彼には出来なかったから、断罪もできなかった。逆に、この物語構造でヒロインが何かを見出すとしたら、それはおっさんに対する断罪以外あり得ない。しかし新海誠は彼を裁きたくないと思った。だからヒロインは具体的なワードとしては見出されたものを構造的に語れない。

まあそう考えると、逆にこの点がこの映画の素晴らしかったところかもしれません。復活がテーマの一つでありながら、それに対する否定も肯定も厳密でない。そうすることによって結局観た者に一番強く残るのは、イメージの海を旅した、という最も重要な体験になったかも知れないわけですから。それは良いも悪いも超えている。そして同時に、良いものにも悪いものにもなる。

ファーストインプレッションで思うのは、こんなところでしょうか。ブルーレイが出たらもう一度観たいですね。僕にとっては間違いなく、とてもいい映画でした。