風立ちぬ、までの仮説

宮崎駿千と千尋以降、二つ以上のコンセプトの相克という物語エンジンを捨てた。少なくとも、主人公側のコンセプトが圧勝するようになった。その結果、物語から説明とそれに伴う意味が抜け落ち、代わりに印象とディテールが異常に際立つようになった。

ナウシカラピュタもののけ姫においては、登場人物やファクターは常にトライアングルの関係にあった。つまり「主人公」「敵対勢力」「神(超常なる物)」の三者がぶつかる構造になっており、二者がいかに神に肉薄し、そしてそれをどう扱うかが物語の基調となっていた。

しかしもののけ姫で神が死んで、敵も味方の一部であることが明らかになり、三角形は崩壊した。そのため今後は別のモデルが必要になったのだが、しかしそれは前ほど分かりやすいものにはならなかった。

「平凡なるもの」と「超常なる者」の交流に比重が置かれるようになり、敵の存在や意味が非常に弱まった。超常なる者は物語の早い段階から平凡なるものの下に降りてくるか、前提的に味方であるため、主人公側の勢力が強くなりすぎて勝負にならなくなったのだ。

千と千尋では、二者の相克というモデルは採用されていない。一見「千尋&ハク」VS「湯場連合軍(超常なる者ども)」の体裁を取っているが、実は千尋に敵対する理由が湯場側に何も無いため、キャラクターたちは先を争って千尋側に懐柔されていく。

そして超常なる者の多くは最初から千尋の味方についている。であれば物語の趨勢は明らかで、主人公たちの勝利は初めから見えていた。つまり根本的に対立構造が無い物語だった。少女が超常なる者を目指してサバイブするのではなく、超常なる者と少女が互いのサバイブを助け合う構造になった。

続くハウルでは、その構造がより強化された。「ソフィ&ハウル」VS「荒地の魔女」VS「サリマン」の三つ巴で始まるかに見えた物語は、荒地の魔女が早々に戦いから脱落し、サリマンも戦う理由を最後まで見出せずに唐突に投降する。いかにしてソフィとハウルが互いを救済するかに焦点が絞られた。

ポニョでは更に尖る。二人には迷いも葛藤もない。グランマンマーレが味方する以上宗介とポニョは物語中で無敵の存在であり、それに逆らうものは一蹴される。いかにして二人が愛を貫き通すかが物語の主旨で、それに対立する概念は存在しないか、無力であることを見せつけるだけだった。

トライフォースの二角を最初から主人公側が手にしていて、残りの一角が無力な状態だ。それだと敵は存在しないので、物語の目的は「凡人」と「超常なる者の一部」との交感、そして彼らがどう生き残って行くか、になっていくしかない。そして彼らは互いの「平凡」と「超常」を交換し合うのである。

 

そして風立ちぬである。これの構造は、過去作からの続きとして観ようと単独の物語として観ようと、どちらにしても非常に謎めいている。物語の基調は、とにかく死んでも飛行機を作りたい二郎と、彼と奈穂子の愛であり、それは千と千尋以降の、主人公側の関係性とその絶対的価値を描く構造の延長線上にある。 

ある意味非常にシンプルな構造である。だがそれが見る者に(おそらく)避けがたい混乱を生じさせるのは、それに伴って描かれるはずのものがすべて排除されているからだ。

まず、敵がそもそも描かれない。具体的にはこの映画の場合、それは戦争と病であるはずだが、それは存在していることが分かっているだけで、ほぼ描写はされない。二郎の飛行機に乗って死ぬ人間は一人もおらず、奈穂子は自分の病が致命的になる前に自ら姿を消す。二人ともそれは、分かっているものとして、一切互いに語らない。

そして、平凡と超常という、従来必ず維持されてきたモチーフが希薄になっている。これは二郎というキャラをどう解釈するかによっても変化するが、二郎以上の力を持った存在はこの物語には登場しない(カプローニがその存在に近いと言えなくもないが、おそらく彼は二郎に超常をもたらす者というよりは、単なる先達であり、二郎と同じ夢と悪夢を見た者でしかないだろう)。二郎こそがこの物語の推進者であり、限界点である。そういう主人公はこれまで宮崎駿の映画には登場しなかった。これまで常に主人公以上の存在がどこかにいたのだが、二郎にはそのような存在はおらず、ひたすら孤独な戦いを強いられている。

そのような孤独な主人公は、神ならぬ我々と同地位にあるのだから、本来であれば我々の共感を強く喚起しうるキャラクターになれるはずだが、単純にそう言いきれないのがややこしい。堀越二郎、彼が果たして我々と同じ人間なのかどうかは、この映画における彼の描写から言って微妙なところだ。彼は猛烈に頭が切れ、腕っぷしも強く、葛藤も見せず、ほぼ全く疲れを見せずに働き続ける。愛は揺るがず、余計なことを全く語らない。

果たしてこいつは(自分と同じような)人間だろうかという疑念が付きまとう。TWITTERでBLZさん(ID:@blz_bb)に指摘されて僕も初めて気付いたが、あれだけ働いているはずの二郎には、目に隈の一筋も無く、無精ひげの一本も生えてこない。画面は常につるつるで、ただ夢と愛だけがある。それに伴って起こるはずの現実が無視されているのだ。 

二郎を人間の振りをした超人として見るか、超人のようではあるけれど我々と同じ人間として見れるかで、この映画への接し方は大きく異なる。前者であれば地上から離れた雲の上の出来事であり、後者として見れればなんとか地上のメロドラマが成立する。物語の筋から言って前者として見られることを期待しているとは考えにくいが、一方で二郎は前作のポニョの主人公・宗介と同レベルのキャラとしての解釈も可能なのがややこしい。つまり、二郎は全く精神的に変化せずに大人になった宗介である、と。

ただこの解釈は、可能であっても相当グロテスクだ。宗介はポニョを初志貫徹に愛し、それに勝利することができた、二郎もそれと同じだ、と言うことはもちろん可能なのだが、愛の純粋な勝利の要因を、無垢な子供であることを言い訳にできた宗介とは違い、二郎は大人である。二郎は無垢な大人という解釈、それは結局「堀越二郎は我々と同じ人間だろうか」という疑念に跳ね返ってくる。

結局それに対して宮崎駿が取った解決策は、「汚いところは一切見ない」という方法だった。その徹底ぶりは凄まじい。二郎も奈穂子もその肉体的な汚さは一切描写せず、二人の愛には汚さが全くない。運命的に出会って初志貫徹で愛し抜くが、生活上の不都合は全く描かれず、セックスシーンも(当然だが)描写されない。互いに都合のいいところだけつまんであとはサヨナラするだけの異常な人間関係とも見える。

神ならぬ人が主人公で、それが競争無に最上位に存在する物語である以上、無数の仮説が成り立つ状態だ。たとえ天才と言えど、死ぬほど働きつつ、愛を得るだけで人間の一生は限界で、それ以外のことを考えている余裕はなく見るに値しない、という物語ともとれる。ハウルやポニョが、ぎりぎりポジティブにそれを表現できたように。

 

だがまさにその意味において、風立ちぬはこれまでの作品とは異なると僕は思う。それは、この物語が、病も戦争も、描写されないその裏に厳然としてあるものとして描いているからだ。ハウルでも戦争はあった。ポニョでも大洪水があった。そこでは多くの死があったはずで、そしてその死は全く描かれなかった。しかしどちらの物語でもそれは寓話の中の出来事であり、本当の血が流れる死だったかどうかは我々には分からないものだった。

風立ちぬの死は違う。太平洋戦争で二郎の設計した飛行機に乗って大量の人が死んだり殺されたりしたのは間違いない事実だし、奈穂子がやがてぼろぼろになって死んだのも間違いない事実だ。二郎も、本当は目に隈を作り、やせ細り、体からきつい臭いを出して、設計図に鼻の油をこすりつけながら仕事していたのだ。ただそれらが、まったく描写されていないだけで。

 

これらを踏まえて、今、僕が考える仮説はこうだ。

最早、「神」も「敵」もおらず、「我々」だけがいる。二郎とは、リアリティを超えた我々の限界点・臨界点を表象するキャラである。風立ちぬで実際に描かれている純粋な愛と夢の希求はあくまで水面上の出来事であって、この映画の鑑賞は、描かれていない水面下の地獄を見る者が補完しないと成立しない。この映画は、我々は既に地獄を十分見てきたのだからわざわざ取り出して語る必要はなく、その地獄が絞り出す一滴の輝きに目を向けよう、という試みなのではないか。そうであればようやく、「美しいところだけ好きな人に見てもらったのね」という呟きに合点がいく。これは、「全力で美しいところだけ見せよう。実際にはそうじゃないけど」という意味だ。つまりこの映画は、壮大な、凄まじいやせ我慢である。

でもそれは、汚いところを知り尽くした大人だからこそ辿りつける境地で、現に汚い所で生きている大人や、これから汚い場所で生きていく運命にある子供が見るべき物語なのかどうかは分からない。そしてもちろんそれが物語として面白いのかどうかも分からない。僕が「風立ちぬについては爺になってから考えたい」と思うのはそういう点においてだ。歳を取った時に、自分がそうした境地に到達できる気は全くしないが、とにかく一度爺になってみないことには分からない。

 

ジブリ映画のキャッチコピーは、その言葉が内容を体現するという点で常に秀逸だが、風立ちぬでもそうだ。

「生きねば」。

これは実際には、「いろいろあるけどとりあえず前提として生きることにしよう」、という意味だ。この映画そのものだと思う。この映画ではその、「いろいろあるけど」が全て省略されているという意味において。