「予告犯」は何故素晴らしいのか。

素晴らしかった、予告犯。

大好きだ。俺はこの映画が本当に大好きだ。

 「明日の予告を教えてやろう」という、文法的に怪しい日本語がキャッチーに響く予告編、生田斗真の大して迫力の無いわざとらしい犯行声明も、戸田恵梨香の警視庁エリートとは思えないヤンキー声も、ただ危険な兆候でしかなかったが、しかし何故か気になった。

ホントに見て良かった。これは我らの映画です。

この映画、そりゃねーだろというマイナス要素挙げていくときりがない。

ネットカフェのハッキングの手段、

戸田恵梨香生田斗真のお粗末な追走劇、

犯行動機、

ラストの展開、

はっきり言ってしょぼい。筋書きとしては説得力に欠けている。

しかし、全くどうでもいい。

逆に、そのうちの幾つかはこの映画の魅力そのものだったりする。

以下、あくまで個人の感想とともに、完全にネタばれでこの映画の魅力について書きます。

  

俺にとってこの映画が優れている点は二つあります。 

一つは、現代を描いていること。

一つは、友情を描いていること。

これはどちらも、この映画が、いかに現在を生きる俺たちに寄与するか、いかに俺たちに関係があるか、ということで、つまり映画の根本的な存在理由に関わる問題です。

この2点を突破してきた時点で、俺がこの映画を嫌いになるはずがない。

 

現代を描いていることについて。

 

この映画で取り上げられる事件、犯行グループ「シンブンシ」がやり玉にあげ、また犯行に利用する手段は、全て昨日今日起こった物事ばかりです。

食品偽装事件、バカッター問題、ネット上の世論調査、メントスコーラ、全て我らが知っているネタです。

今生きている我らの周りで起こっている事件ばかりであり、

彼らが配信するのはニコ生であり、それをアクセスする場所もネットカフェ。

そして、有象無象のヤジ馬たちが騒ぐのはツイッター

 これらは、いかに俺たちのすぐ傍に「シンブンシ」たちがいるか、それを感じさせる臨場感のための演出です。

 そして演出はただの演出に留まらず、俺たちが生きている場所を描きだします。

派遣で入った職場で苛められて吐き、挙句に切られ、空いてしまった無職期間のせいでハローワークでも見つからない職。そして落ちて行くのがタコ部屋労働。いつ俺たちがそこに落ちて行ってもおかしくない。本当にすぐ近くで起こっている出来事です。

たしかに漫画的に演出されてはいる。しかしこれを他人事として感じられる人は幸福です。

働いて、少しでも障壁や矛盾にぶち当たったことがある人なら、ゲイツの孤独と悔しさが手に取るように分かるでしょう。どう探しても、どうあがいても希望がどこにもない、という状況が。

それらがまったくナマの東京の街で起こる。

夜の新宿歌舞伎町だとか、丸の内のビジネス街だとか、霞が関の庁舎とかではなく、その辺の道端で起こる。

本当に運がいいことに、個人的なことを言えば、この映画で事件が起こる場所は、全てと言っていいほど俺が見たことのある場所だった。

品川の港南口で帰宅途中のサラリーマンに向かって振りかざされる包丁。

新橋のSL広場前のモニターで流れる政治家の討論番組映像。

六本木のミッドタウン前の路地ですれ違う犯人と刑事。

全て、俺が遭遇していても全くおかしくない場所で事件が起こっていた。

もうとにかく俺には、ここで起こっていることすべてが、「実際に起こってもおかしくないこと」として認識されたわけです。その手にとって触れることができるようなリアリティは、物語においてはこの上ない快楽になります。

卑近であり、根本的にしょぼい。それが我らのリアルで、この映画はそれを正しく描写しています。だからこの映画に対して、スケールが小さい云々という批判があるとしたら、それは的外れです。これは我らのリアルを描いた映画だからです。

 

友情について。

 

はっきり言って、これがこの映画の全てと言ってもいい。

原作と比較したときにも、この部分が最もブーストされていた。

これほど魅力的に友情を描いた映画を見たことないくらい。(未見ですが、同監督によるゴールデンスランバーや白ゆき姫もそちらを強化した映画らしいので、見てみたい)

結局、登場する男たち5人に、親愛を感じられるかどうかがこの映画を好きになるかどうかの境目でしょう。

まず、5人の出会いの導入。これが完璧だった。

前述のとおり、職場いじめと派遣切りに遭い、行き場を失って落ちていく主人公。

そして流れつくタコ部屋。

ここで5人の仲間たちが出会う訳ですが、その結びつき方が本当に美しい。

その日の仕事を終え、部屋でくつろぐ5人。

それぞれの過去の経緯を語りあう中、部屋の隅で俯いている主人公。

(これが上手い。鑑賞者は既に主人公の過去を知っているので、改めて話すのは二度手間でしかないのでその省略と、話しかけられない彼の内気さ孤独さの表現を同時にやっている)

それが、ふととある問題について計算力を見せつけたことで「お前はビル・ゲイツか」と突っ込まれ、それがそのままあだ名になる。彼はそのお返しに、4人それぞれにあだ名をつけ返す。

あだ名を付ける。この行為が素晴らしい。このシーンは本当に上手かった。ゲイツが心を開き、それが受け入れられる瞬間です。あだ名を付け、それが相手に受け入れられる、それは友情の証に他ならない。

30を過ぎた男たちがこれをやることに意味がある。それぞれに、孤独に生きてきて、どん詰まりに至った彼らにとっては、ただの名前ではなく、希望であり支えとなる。

またこの5人のキャラが本当に良い。全員めちゃくちゃキャラが立っている。

ゲイツ、カンサイ、メタボ、ヒョロ、ノビタ。誰もが俺たちのすぐ傍にいるようなリアルなキャラで、かつ漫画よりも遥かに漫画っぽい。

ブラック企業を首になったプログラマー、売れないバンドマン、冴えないデブ、眼鏡のニート、この時点でもうおなかいっぱいであるというほど完璧な組み合わせの4人だが、白眉はやはりヒョロというキャラクターである。彼はフィリピン人の母親と日本人の父のハーフなのだ。

俺はもう、めまいがした。この映画の徹底的な、そして神がかった速報性に。

フィリピン人のハーフといえば、思い起こされるのは川崎のいじめ殺人の主犯格の少年だ。

ヒョロは純粋無垢の美しい少年として描かれるので、二人の存在は全く別の意味を持つのだが、重要なのはフィリピン人のハーフという存在が日本の一部であることの象徴となったタイミングでこのキャラがスクリーンに現れたということです。それはまさにリアルとしか言いようがない。

バブル期に生まれたこれらの子供たちが、今俺たちの前に現れている。過去の歴史から繋がる現在に我らが今いることを描写する、ということは、今我々がいる場所がどこかなのかをも表現する。この映画に現代日本の一側面が集約されている。

これは一種の奇跡だと思います。

企画立案からの制作期間を考えてもこれは偶然でしょう。しかし必然の偶然である。この映画が徹底的に現在を追求したことによって、必然的に時代と衝突したリアルです。

 

そして、ヒョロは死ぬ。父親に会いたかったという願いをかなえきれずに。彼らは国籍を超えて友情で結ばれ、その友情のために殉じる決意をする。

ここがこの映画の奇跡です。そしてターニングポイントでもあります。ストーリーにとっても、鑑賞者の感情移入にとっても。

ヒョロの死を冒涜したタコ部屋の監督を、4人は撲殺する。順々にスコップを手渡しあって。

ここでこの映画は我々に問いかける。

この状況に置かれた時、お前はスコップを手に取って男を殺すか、と。

 

おそらく、俺たちは、殺さないだろう。

猛烈な怒りに駆られながらも、保身や倫理や恐怖や理性や法の問題に縛られて。

しかし彼らは殺す。躊躇なく叩き殺し、炎とともに証拠を消し、犯行に向かっていく。

それは、我らと彼らの間に大きく深い心理の隔たりがあることを示すのだろうか。

俺はそうは思いません。

これが物語が持つファンタジーという名のパワーだと思う。

確かに俺たちは男を殺さない。しかし、殺したいという気持ち自体は理解できる。

その、倫理的にぎりぎりのところを超えていく、自分たちにできないことをする、それが物語のヒーローたちの役割です。

この倫理的な問題は、この映画に付きまとう論点、批判点でしょう。

しかしこの映画はそれを受け付けることを織り込み済み、というより歓迎するはずです。

何故なら物語では、その彼らと俺たちとの違いこそが、俺たちの現在の生き方を浮き彫りにするものとして機能するからです。

個人的にはその倫理的なギリギリのところを攻めてくる姿勢が本当に気に入りました。

心が彼らと我らの間で引き裂かれる、これこそまさに物語的体験です。

 

見る者に、俺も彼らの友達になりたい、と心から思わせるほどの友情を積み上げたうえで、このファンタジーをやってのけるというロマン。

これは本当に痺れた。

 

その友情と信頼関係の映像的な表現も、全くもって見事です。

俺がまったく痺れたのは、四人が議員のPR会見妨害のためにメントスコーラをしかける時の作戦風景です。

作戦遂行後、全く会話もなく、視線を交わすこともなく、十字路のそれぞれの方向に別れていく4人。

男たちの友情と信頼を表すのにこれほど見事な絵があろうか。

 

この映画、邦画のご多分にもれず、過剰な音楽と、重要な(というかコンセプト的な)セリフの繰り返しにまみれてはいる。

くどいし、わざとらしいし、安っぽいし、しょぼい。

 

しかし、劇中で最も重要なゲイツのセリフはたった一回、しかも他の何よりもさりげなく吐露される。

そして俺にとってのこの映画の精神もこのセリフに全て集約される。

 

「俺は友達が欲しい」

  

もう既に、友達を手に入れている瞬間に、このセリフを言うことに感動がある。

 

このセリフは、4人の仲間に向けられた言葉であると同時に、その意味を超えている。この時点で彼らはもう既にゲイツの友達だからです。別の誰かに向けられている。

このセリフは誰に向かって語られた言葉なのか。

 

それはもちろん、俺たちです。

彼は俺たちに、友達になってほしい、と語りかけているのだ。

その声はさりげなく、聞き取りづらい。

聞き取れない人もいるだろうが、聞こえた人にとっては、この映画は最高の映画だろうと思います。

 

ということで、予告犯、本当に素晴らしかったです。

まだ脳とハートが揺れている……