「スノーデン」について

僕は「スノーデン」を政治信条を訴える映画としてはほとんど観なかった。では何として観たかと言えば「ルービックキューブ」の映画として観た。

 

オリバー・ストーンのこの映画における目標は大きく3つあったと思う。

1.米国政府の欺瞞と、プライバシー侵害という自由に対する抑圧を世界に敷衍して告発すること。

2.エドワード・スノーデンを英雄として描くこと。

3.映画として最高に面白いものにすること。

 

僕がこの映画に惹かれたのはひとえに「3」によるもので、1と2は3がもたらした一つの結果に過ぎない。もちろんこれらは互いに支え合う関係にあるので、あるいは、1と2を利用することによって3がもたらされている。とにかく僕はオリバー・ストーンがいかにしてこの映画を面白くしているか、そこに注ぎ込まれた技術に興味を持った。

 

真実も正義も相対的なものだからこそ、スノーデンや記者側から観た正義を彼らが断固として主張することに僕も疑義は無い。その意味でシチズンフォーはやはり1と、2が半分、の映画だった。あくまでも理知的でクールで整然としていなければならない。それがこのドキュメンタリーの役目だったのだから当然だが、ハリウッド映画監督であるオリバー・ストーンの役割はやはり3だ。

3の働きは何か。それは、一つの主張や事実を、我らのものとし、感情を揺さぶる、ということだ。どんなアホにでも「アメリカヤバい、スノーデンカッコいい」と思わせることだ。そこに痺れた。主張の内容よりも、主張する時にはこうすれば面白いのだ、というやり方を徹底的にやりきったことに痺れた。

 

この映画の何が「面白い」のか、細かい話をすると恐らく編集の技術やら要所要所で射しこまれるサービスカットの話になっていくが、俺は特に重要だったのは次の2点だったと思う。

1.スノーデンを「人間」にしたこと

2.ルービックキューブの使い方

 

1.スノーデンを「人間」にしたこと、について。

シチズンフォー」の話になるが、ここでは本物のスノーデンが出てきて、記者から簡単なプロフィールを尋ねられる。そこでスノーデンは、詳しく話さなくちゃだめか、と記者に尋ねる、「僕の人格がクローズアップされるのは避けたい。メディアは個人を優先して取り上げすぎる。そうされることで論点がずれるのは避けたい」。

スノーデンは正しく、そして間違っている。もちろんそうされることによって報道という伝達される情報量が限られた手段においては、間違いなく彼の意図からは外れて行く。しかしメディアが人間をクローズアップするのは、その方がリアルで分かりやすくて面白いから、当然なのだ。

 

そしてオリバー・ストーンはもちろん、スノーデンという人間に思いっきりフォーカスする。彼が撮るのは映画だからだ。言いたいことをほとんど全部言える時間がある。スノーデンを魅力的に撮れば撮るほど、映画としては面白くなる。そしてそのためにオリバー・ストーンが取った手段は、スノーデンという男を「人間」に引きずり下ろすことだった。

 

かつてニュース動画や写真で観たスノーデンの顔は、青白く、理知的だった。しかし彼が何を考えているのかよく分からなかった。僕にとって彼の顔ははっきり言ってオサマ・ビンラディンの顔に対する印象とあまり変わりなかった。あまりにもでかい事件の首謀者であったので、何者なのか測り知れず、一種超常の立場にいるように見えたのだ。

 

そのままでは物語の主人公にはなれない。少なくとも我々の世界に生きる、我々が共感する主人公にはなれない。彼と共にこの事件を辿るためにも、我々自身が対象になっているこの事件に共感するためにも、彼に我々の場所に降りてきてもらう必要がある。

 

ここでオリバー・ストーンが取った戦略は、必然だったのだろうが、秀逸だ。彼はスノーデンを可能な限り「そんじょそこらの男」にした。彼が描くスノーデンはたまらなく魅力的だ。軍に志願したはいいものの運動音痴で除隊、恋人とはいつもケンカ、軍は落伍したが銃の腕前だけは一流(まるで野比のび太だ)、同僚と冗談も言い合う、てんかんにもかかる、嫉妬もする、パスタを茹でたら眼鏡が曇る。でも仕事には真摯で類まれな秀才で、恋人は絶対に裏切らない、エロ動画が流れそうになったら止める。まさに、彼に一人の人間として向きあった時、俺たちの信用に値する人物として描かれている。本物のスノーデンがどういう人間なのかはもちろん分からない。オリバー・ストーンだって分からんだろう。しかしこれが正解だ。彼がどうなるのか、いかなる選択をするのか、というストーリーの終着点に向かって俺たちの注意を最大限引き付ける。

 

もちろんこれは映画作り、物語作りにおいては常套中の常套だ。しかし、スノーデンという人間の像はこれまで一貫して大いなる謎だったのだ。その男が一気にすぐ目の前に近付く、その落差、跳躍による彼我の隣接感、リアリティは滅多に味わえないものだった。

 

 

2.ルービックキューブの使い方、について。

この映画はとにかく小さな演出の積み重ねが効いているが、その中でも最たるものがこれだ。

 

シチズンフォー」を観て初めて知ったが、スノーデンは実際にジャーナリストとのランデブー時の目印としてルービックキューブを携帯していたらしい。この事実を起点にして、オリバー・ストーンの映画的想像力が一気に羽ばたいたのは想像に難くない。

 

これは全く絶妙なアイテムだった。待ち合わせ時間に遅れて来たスノーデンが右手でルービックキューブを回しながら現れる登場シーンは映像的スリルに満ちたすばらしいカットだった。あの一瞬で、ヒーローが現れたこと、謎とサスペンスが動き始めたこと、我々の身近にあるアイテムを持つことで主人公を「人間」化すること、ルービックキューブの色に象徴される多種多様な人間の思惑が錯綜しその真っ只中にいるのがスノーデンであることなどが、一発で表現される。

 

そしてオリバー・ストーンルービックキューブを使い倒す。具体的には機密情報の持ち出しの最大のギミックとしてこれが使われるわけだが、これにとにかく痺れた。ルービックキューブの一片が、蓋が取り外せるようになっていて、そこにmicroSDが収納できるようになっているギミックの事だ。

 

ルービックキューブはスノーデンの行動を映画として面白く、そしてリアリティをもって表現する、という目的のための、絶妙なパズルだった。誰もが一度は触れたことがあるもので、少し知恵を使い、少しコツがいる。「少し以上」頭がいい人が触る者としてリアリティを持つアイテムなのだ。そしてそこに、誰も気が付かなかった小さな蓋が付いていて、中にはアメリカ政府の重大な欺瞞を暴くデータが収納される。非常に卑近なアイテムの中に、世界を揺るがす謎が収まっている、というロマンだが、個人的にこのギミック、想像力の押し進め方には極めて共感する。これがどういう事かと言えば、要するにスノーデンによる極度に重大かつ専門的な行動を「俺たちでも知恵と勇気があればNSAから情報を盗むことができる」というリアリティに変換したということだ。オリバー・ストーンが「スノーデンはルービックキューブを持っていた」というたった一つの単純な事実から、この映画のストーリーをどう膨らませて行ったかが、手に取るように分かる。

 

 

最も重要なポイントはこの二つだと思うが、もう一つこの映画にとって重要な要素として、音楽的構造になっていることが挙げられると思う。テーマを繰り返して音を増やし、最後に転換してフィナーレに持ち込む構造になっている、ということだが、これの詳しい話は割愛させてもらいます。とにかく個人的に、オリバー・ストーンの映画作家としての実力をまざまざ見せつけられた映画でした。