地獄でなぜ悪い

園子温の「地獄でなぜ悪い」を観ました。
ちょっと走り書きで感想を書きます。

ずいぶん久しぶりに頭からしっぽまで彼の映画を楽しんだ。「恋の罪」は楽しいポイントをほとんど一個も見つけられなかったし、「ヒミズ」は過剰に無駄な破滅の傾向に疲れてしまったし、「希望の国」は楽しいとかそういう映画ではなく時代の刻印みたいな映画だった。

その点「地獄でなぜ悪い」はもう徹底的にエンターテイメントだった。タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」とかで楽しめた人間なら、確実に満足できるだろう。映画を撮る、という目的に登場人物たちの抱えるストーリーが集約される瞬間はまさに巨大な祭りである。

ごちゃごちゃと救いようのないほど混乱して、行き場も解決策もない状況が、「この夜に、映画を撮る」という手段によって瞬間的にクリアになる様は、万能感を伴った、恍惚さえ覚える物凄いカタルシスだった。

正確に言えば、致命的なカタストロフィの予兆というカタルシス、だった。

実際に描かれたカタストロフィはそれはもう素晴らしいものだった。
が、もう観ていてその瞬間から分かっていたが、この「予兆」が最も凄まじい絶頂で、実際にカタストロフィが起こってしまえば、それは予兆の時に抱えていた感覚以下になる。それがどれだけ凄い描写でも、それはどうしようもない。遠足前日、文化祭前夜、セックスの直前、ゲームの発売日前日、あらゆる「この世で最も楽しいこと」の直前と同じだ。想像力がたまりにたまって爆発したとき、それは現実を凌駕する。そういうごく限られた状況を映画内で引き起こしたこと自体がめちゃくちゃすごい訳ですが。

そして、その「予兆と現実」とは全然別の話で、思うことがありました。映画を観終わってしばらく経った今日思ったことなのですが、俺は園子温とは「血」に対する感覚がかなり決定的にずれているのだな、と。そして多分だからこそ俺にとっていまだに彼の映画が魅力的なのだな、と。

簡単に言うと、俺にとっては「血」は常にリアルなので、それそのものがエンターテイメントになることはない。しかし園子温は血で遊ぶことができる人、偽物の血と本物の血の違いが分かっている人なので、ギタリストがアルペジオを爪弾くのと同じくらい自然に人を出血させる。

俺にとっては血はどこまで行っても血だ。出来が良ければ本物になり、悪ければ偽物になる。しかし園子温の血は物凄く出来がいいのに表現されているのは嘘の血なので、俺の頭は混乱することになる。

混乱するのは血だけが理由じゃない。この映画を楽しむには(多分、ですが)このフィクションの中に秘められたノンフィクションを感じ取らなければならず、そうでなければ結構つらいことになるのではあるまいか、そしてそれを察する人はフィクションに逆襲されるのではないか、と思うからです。

どういうことか。この映画の本体は実は(っていうほどでもないけど)ノンフィクションなのだ。この映画、セリフ回しにおいては園子温の例の古臭さ、わざとらしさは全開で、例えば冒頭の不良の喧嘩や負傷したヤクザを称賛しカメラに収めようとするシーンなんかは、もういい加減この手癖やめてくれないかな、と辟易する。

でもこのわざとらしい絵と言葉で映画を無理やり推進してしまうのは、これが園子温の中では事実だったからだ。本当にあったことだから、でたらめでも説得力が消えないのだ。彼は本当に、長いことファックボンバーズ的なチームを結成していたし、本当に不良の喧嘩を撮ったし、ヤクザも撮った。組長の娘と間違ってセックスして殺されかけたことも(たぶんそれっぽいことが)あった。

そして、最高の映画が一本撮れたら本当に死んでもいいと思っている。嘘に塗り固められた演出の中で、実は中身が全部事実だから、この映画は輝いているのだ。ストーリー構成自体は、まさにパズルのピースがはまるように見事で、そこだけ追っても楽しめる映画になっている。しかし演出においては物語外に説得力が依拠している。その世界の両輪に乗っていけなければ、あの嫌ったらしい「全力歯ぎしりレッツゴー」のCMソングはただただウザいだけだし(あれは結構マジで悪趣味だと思う)、堤真一は単なる気持ち悪い狂人だ。

エンターテイメントの顔をした本質的にはドキュメンタリーの映画を、エンターテイメントとして提供してくるから混乱が起こり、洗練されない部分がいつまでも巨大な染みとなって残り続ける。

だから仮説ですが、この映画のノンフィクション性を感じ取れない人にとってはこの映画はかなり苦痛である気がするし、一方で僕のようにノンフィクション的エンターテイメントに感動する人は、溢れかえる大量の血にむせかえることになる。そして、この映画を「純粋に100%きっちり」楽しめる人は、園子温と同じように本物の血と偽物の血の区別ができる人なのではないでしょうか。

とはいえ僕も十分に楽しみました。十分すぎるほど。むしろ僕が園子温を追いかけるのは、そういう違和感が常に残り続け、理解しきれない場所が残り続けているからです。その洗練されない染みの部分、人によって変化するこことの距離により、この映画と園子温の評価はずいぶん変わるような気がします。